令和元年9月2日に大阪地方裁判所に提出した,学校法人瓜生山学園に対する名称変更差し止め訴訟に関しましては,これまでに京都市立芸術大学の卒業生,関係者,そして多くの市民の皆様から,応援の言葉を絶える事なく数多くいただいております。皆様の後押しに心から感謝します。
今回は美術史を研究する立場から,本学美術学部芸術学研究室の田島達也教授に,芸術大学にとって「大学の名称」がどれほど大切かについて,意見を述べていただきます。
公立大学法人 京都市立芸術大学
理事長 赤松玉女
「芸術大学の名称」に対する本学の考え方についてー美術史の視点からー
京都市立芸術大学
美術学部教授 田島達也
1 京都市立芸術大学の由来
本学の名称について,日本美術史を専門とする私の立場から意見を述べたいと思います。
京都市立芸術大学のはじまりは140年前の明治13年(1880)開校の京都府画学校に遡ります。東京藝術大学の前身となる東京美術学校の設立は明治20年(1887)ですから,本学は日本で最も長い歴史を有する芸術系の学校という事になります。その後,京都市画学校,京都市立美術工芸学校,京都市立絵画専門学校,京都市立美術大学など組織の変遷に伴って名称も変わっていますが,京都+(芸術)+学校制度という命名のルールは一貫して変わっていません。そして正式名称の「京都市立」という部分は「市立」がしばしば略され「京都画学校」「京都絵専」「京都芸大」と呼ばれてきました。ゆえに今日の「京都芸大」という略称は昨日今日できたものではなく,本学140年の積み重ねの上に定着してきたものだということができます。
2 美術史研究における大学の名称・略称の意義
(1)流派とschool
美術史という学問は,美術作品に付随する文献資料も扱いますが,中心は作品の様式(芸術における特徴的な表現形式)の研究です。そのために作家や作品の特徴を分析し,分類し,系統付ける事が必要になります。どんな作家でも,その時代の潮流と無縁に全く新しいものを生むことはありません。そこに至る流れを正確に把握することで,はじめてその作家の独創的な部分を指摘することができるのです。
西洋の印象派,日本の狩野派など,美術上の様式的つながりを持つグループや師弟関係を「流派」と呼びます。誰に学んだのか,その師匠はどういう系統の人なのかということは,対象とする作家の様式を研究する上では最初に押さえておくべき要の情報です。この「流派」を英語では”school”と表現します。そして近・現代では「出身校名」が文字通り”school”を示す第一の情報となっているのです。そのため作家の略歴を紹介する場合は,「生年,出生地,出身校,師事した人,出品歴(どういう展覧会に出品・受賞したか)」という順で記述するのが一般的です。
(2)近現代の作家活動と学校名
近世以前の絵画教育は徒弟制度であり,様式面での拘束が強かったのに対し,近代では個人の個性が尊重されるようになったので,学校という括りはあまり意味を持たないと思われているかもしれません。しかし,例えば大正時代に斬新な日本画を世に送り出し一世を風靡した国画創作協会という画家団体は,本学の前身京都市立絵画専門学校の若い卒業生で組織されていました。自発的な活動においても芸術思想を共有できる場として学校の存在は大きいのです。
現在の大学でも,依然として大学ごとのカラーがあります。芸術を生み出す者は,肯定するにせよ反発するにせよ育った環境に対してどのようなスタンスを取るか,ということから完全に離れることはできません。作家自身は意識しない場合でも,同じ時と場を共有したものの間に表現上の共通性が見出されることも多くあります。したがって,現代の美術を扱う研究者も作家の出身校を正確に把握することが必要です。
私自身作家の略歴を編集することがありますが,正確な名称を確認するのに神経を使います。現代作家の資料では,表記が統一されていないことがままあります。作家自身も略称で表記するケースがあるので,本によって校名が違って表記されることも出てきます。これまでは多少不正確でも本学を示す名称と理解できた文献も,今後もう一つ京都芸術大学というのが出てくると,どちらの大学を指すかわからず混乱するケースが間違いなく頻出します。作家が生きている間なら確認もできますが,美術の歴史は何百年何千年と続くものです。作者のアイデンティティーを形成する重要な要素である校名が誤解されるのは,美術史研究的には大きな問題なのです。それぐらい名前は大切です。
長年の実績を通じて確立した本学のイメージを背負う大切な略称として「京都芸大」はあります。そこに「市立」の文字のあるなしで紛らわしい校名が生じれば,本学の歴史が誤解されることにもつながります。いま京都芸大の140年の区切りを迎えるときに,そのような事態が発生して欲しくないと思っています。