閉じる

共通メニューなどをスキップして本文へ

ENGLISH

メニューを開く

【令和2年2月26日付】「芸術大学の名称」に対する本学の考え方についてー演奏家・研究者の視点からー

2020.02.26

令和元年9月2日に大阪地方裁判所に提出した,学校法人瓜生山学園に対する名称変更差し止め訴訟に関しまして,今回は,演奏家・研究者の立場から,本学の大嶋義実副学長に「大学の名称」がどれほど大切かについて,意見を述べていただきます。

 

公立大学法人 京都市立芸術大学

理事長 赤松玉女

 

演奏家のプロフィールにおける大学の名称の意義について

 

京都市立芸術大学

副学長・音楽学部教授 大嶋義実

 

いわゆる西洋クラシック音楽の世界では,後進の育成は元来,師匠から弟子へとその技能を伝える徒弟制度,または親から子に代々受け継がれる,というほぼ家業のような形で行われてきました。18世紀のバッハ,モーツァルト,ベートーヴェンなどは皆こうしたシステムから輩出された音楽家です。ところが,19世紀になると意欲と能力さえあれば,市民の誰にでも門戸が開かれた音楽院,音楽アカデミーなるものがヨーロッパ各地に開設されます。これが現在各国にある音楽大学の原型です。それまでも声楽家やオルガン奏者等を養成する学校はありましたが,それらは宮廷や教会に付属しており,そこに学ぶことができるのは限られた範囲の者でしかありませんでした。

 

しかしながら市民社会の到来という大きな歴史の流れが,音楽芸術をすべての人々に解放します。音楽大学設立はこうした公共財としての芸術に携わる音楽家の育成を目的としたものです。

とはいえ,徒弟制度,家業に支えられてきた音楽家,また音楽の在り方そのものは,師匠の受け継いできた特徴をその文化的背景と共に色濃く反映するものとならざるをえませんでした。

というのも実演家にとって楽譜の解釈というものは,どれほど客観的に行おうとしても,演奏しようとする人物の主観を通さなければ現実の音とはならないからです。創作活動においてもそれは同様で,五線上のどの音を選択するかは,きわめて主観的な作業になることは言うまでもありません。

このことは師事する師匠いかんによって,本人の音楽的傾向が決定されることを意味します。

 

そして師匠に弟子入りするというシステムが音楽大学にとって代わられた以上,音楽大学に学ぶことはそこで教える教員の技芸を受け継ぐことを意味するようになりました。同時に共通の芸術的背景を持つ音楽家が同じ学校に教師として赴任することは当然のことと受け止められてきました。ときに例外があったとしても,フランス的な音楽観を持つ指導者はウィーンの音楽大学では受け入れられないということです。

 

したがって,どこの学校で学んだかは,その人物がどのような音楽的特性を宿す音楽家なのかを推し量る基本的な情報源となります。もちろん技術的な巧拙が出身大学名によって判断されることもないとはいえません。それでも大局的には,技術的なレベル差以上に,一定の「芸風」がそこに示されていると考えられることが一般的です。

誤解を恐れずに言えば,日本の伝統芸能における家元制度にも似た,一種の流派のようなものが出身校によって存在しているといえるのかもしれません。

 

京都芸大とウィーン音大を卒業している私の場合,音楽に一定程度関わっている者からすれば,プロフィールに記された校名を見ただけで,誰もが「間違ってもモーツァルトをフランス風の洒脱な音楽としては演奏しない奏者である」ことを予測できます(それによって私の出演するコンサートのチケットを購入するかどうかを決める場合さえあるでしょう)。

逆に,私のコンサートに来場し「あんな風に音楽を演奏したい」という希望を若い世代が持ったとすると,彼らは私のプロフィールに記された出身校を確認して,京都芸大やウィーン音大を目指すこととなるわけです。

このように出身校をプロフィールに記すことは,後継者を育成する観点からも極めて重要かつ不可欠の情報であることがわかります。

 

それ故に紛らわしい校名が複数存在することは,音楽界に混乱をもたらすことはあっても何ら利益をもたらさないことは火を見るよりも明らかといえましょう。

関連リンク

【令和2年2月13日付】「芸術大学の名称」に対する本学の考え方についてー文化人類学の視点からー

【令和2年2月20日付】「芸術大学の名称」に対する本学の考え方についてー美術史の視点からー