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肥後定慶と行快―運慶・快慶次世代仏師に関する一考察―

―(論文要旨)―


 肥後定慶と行快は、十三世紀前半に活躍の時期を同じくした仏師である。二人はともに慶派仏師であり、肥後定慶には師弟関係を示す文献史料はないものの作風的に運慶との関係が指摘されており、行快は文献資料から快慶の高弟であったことが知られている。彼らは運慶・快慶の次世代に当たる訳だが、偉大な先達である二人の存在を彼らがどう受け止め、自らの造る仏像に反映させていったのかは大変興味深い問題といえる。本論では、「運慶と肥後定慶」「快慶と行快」という二組の間でどのように作風が継承あるいは改変されていったのかを検討し、肥後定慶と行快の特質を明らかにすることで、彼らが先達の作品をどのような目で見つめていたのかを探った。


 まず肥後定慶に関しては、先行する運慶作例との比較を踏まえて検討した結果、次のようなことが言えた。即ち、肥後定慶の大報恩寺准胝観音像や鞍馬寺聖観音像は、作風的に運慶の滝山寺聖観音像・梵天像の延長線上にあると考えられるということである。定慶の観音像が醸し出す「生々しい」という印象は、外来の宋代美術の影響によって生まれたものでもなく、定慶個人がこの時期に突然生み出した表現によって生じたものでもない。定慶は、運慶の滝山寺諸像においてすでに行われていた、生身の人間のような感触を想起させる表現方法を受け継ぎ、その表現方法をさらに多様化させたととらえられる。仏像が生々しい印象を醸し出すということ自体に定慶の独自性があるのではなく、生々しい印象を醸し出す表現方法を多様化させたということに定慶の独自性があるといえる。定慶は、大報恩寺准胝観音像や鞍馬寺聖観音像において、「目の前に生身の肉体を持った仏が立っている」と感じさせるような“臨場感”のある仏像を目指したと考えられるが、それを実現するための手段が運慶とは異なる段階に入っている。すなわち、運慶が、「頭からつま先までを肉体」と捉え、その肉体全体に筋肉の量感・柔らか味・ハリを感じさせる造形を行うことで、生身の肉体を想起させる仏像をつくりあげたのに対し、定慶は「肉体全体」の筋肉の表現には重点をおいていない。その代わり、顔面の内部に骨格を感じさせるような頬骨の表現を行ったり、あごを細くしたりすることによって、従来の丸い相好の仏像との差別化を図り、相対的に仏像の顔を人間に近い印象のものにした。つまり、「生々しさ」を感じさせる原因を、肉体全体ではなく顔に集約したのである。大報恩寺像の段階では、まだ胴体の肉付けに起伏と弾力感があり、体部からも筋肉の感触を想像させる要素が残っているが、鞍馬寺像になると胴体の肉付けが平板になり、細さだけが印象付けられるようになっている。その代わり、鞍馬寺像では、あごの細さが増し、鼻梁も長くなって面長で細面の印象が一層強まっており、丸顔の仏像からはさらにかけ離れるという意味で、一層人間に近く感じられると言える。端的に言えば、鞍馬寺像においては、肉体に関して「生々しさ」を感じさせる要素が、身体全体から顔のみへとシフトしたのである。肥後定慶は、先行する運慶作例の形だけではなく、滝山寺諸像に見られた「生身の仏に対峙する臨場感を作り出す」というコンセプトそのものを理解し受け継いだ。しかし、そのコンセプトさえ達成できれば肉体表現を仏像制作の核に据えることは必要ないと考えたことに、肥後定慶の独自性と次の時代への転換点があると言える。


 一方、行快とその師匠である快慶とを比較すると、次のようなことが言えた。即ち、快慶が時系列に沿って直線的な作風変遷をたどるのに対し、行快はそうではなく、揺れ動いていたということである。行快は、快慶がたどりついた晩年期の作風=快慶が理想とした仏像のあり方を忠実に踏襲・墨守するわけでもなく、かと言って、快慶とは全く異なる完全に新しい独自の表現を見せたわけでもなかった。このことと、行快が阿弥陀寺阿弥陀如来像において快慶の若い頃の作品の要素を取り入れていることを考え合わせると、行快は、晩年期の快慶作品を理想とはせず、その代わり快慶の作品の中からその制作時期の早い遅いに関係なく、自分が必要とする要素を抜き出してきて、自分の作品に取り入れた可能性が考えられる。阿弥陀寺像の場合は、肉付けに快慶初期の作品の要素を取り入れ、北十萬阿弥陀如来像では、肉体の量感を減らすことや衣の表現に快慶晩年期の要素をもって来ていた。つまり、行快は、快慶が作り上げたある時点での作風をそのまま受け継ぐのではなく、快慶のさまざまな時期の作品の中に学ぶべき要素を見つけていたようである。しかし、放つ雰囲気を含めた像全体を真似るのではなく、肉の付け方や衣文表現といった部分的な要素を抜き出して取り入れる態度は、ともすれば部分と全体が噛み合わない印象の像を生み出す危険をはらんでいる。行快の作品の中では、北十萬像がその危険に陥っているといえるだろう。北十萬像は、量感の減少や衣文線の増加といった要素を快慶晩年期の作品から取り入れて造られたわけだが、顔や肉体までを快慶晩年の平板な表現にしたわけではなく、むしろ顔や肉体にはまだ阿弥陀寺像に見られたような量感が残っていた。そして、その阿弥陀寺像に見られた量感の源は快慶初期の作品と考えられるわけであるから、つまり、北十萬像の中には、快慶初期の作品を真似た量感と、快慶晩年期の作品に見られる衣の表現の複雑さが混在していることになる。快慶の様々な時期の作品から、像全体が放つ雰囲気と切り離して部分的な要素を持って来て、それらを繋ぎ合わせるという造像手法は、一つの像として見た時に統一感が失われてしまうという危険性を孕んでもいる。このような傾向はおそらく行快一人に限ったことではなく、他の仏師にもあったであろうし、それが鎌倉彫刻が衰退へ向かう一因ともなったのではなかろうか。


 総じて、行快は、師である快慶の先行作例を「型(かたち)」として受け継ぎつつも、師が目指したであろう理想の仏像のあり方・造像のコンセプト自体は受け継いではいないと考えられ、逆に、肥後定慶は、目に見える形は大きく改変しつつも、運慶が生み出した造像コンセプトを理解し継承していたと考えられる。

2004年度 大学院市長賞 大学院 芸術学専攻 院2回生 名取 美穂 

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