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村山春菜さん

在学生が、多方面で活躍する卒業生に本学の思い出や現在の活動についてお話を伺う「卒業生インタビュー」。日本画家の村山春菜さんへのインタビューを前半と後半の2回に分けてお届けします。
インタビュアーは、美術学部日本画専攻の藤原華豊さんと森川深雪さんです。

1.母に勧められて京都芸大へ

村山春菜さん

幼少期はどのようなお子さんでしたか?

村山  幼少期から絵が好きでした。学校の教室で当時人気だったキャラクターを描いて、友だちがそれを喜んでくれたり、上手だと言われて嬉しかったりしたのが、小さな出発点だったという気がしますね。

京都芸大を受験しようと思ったきっかけは何だったんでしょうか?

村山  関西の出身ですが、元々は特に京都芸大を志望していたわけではありませんでした。でも母から「関西にある芸術系の公立大学だし、どうせだったら目指してみたらどう?」って言われて、じゃあ目指してみようかな、という感じでした。もちろん、目指すからにはちゃんと頑張って勉強しました。

お母様の後押しが大きかったんですね。

村山  そうです。絵を描くのは好きでしたが、芸術系の大学に入りたかったわけではなく、画家になりたいと思ったこともなかったんですよね。小さな絵画教室に通っていたので、そこで時々デッサンを教えてもらっていましたが、将来のことは自分の中ですごくふわっとしていました。「私と言えば、絵が好きかな」という感じで、他に特技はなかったですし、多少興味があることでも、それが特に何かをする強い動機になることもなかったですね。でも、母から「どうせ目指すなら関西で一番難しい大学」と言われて、「なるほど」と思いました。他にそれほど好きなものがなかったせいで進路に迷うことがなかったのが、逆によかったのかもしれないですね。

京都芸大にはどんな印象をお持ちでしたか?

村山  高3の夏休みに、オープンキャンパスではなかったと思いますが、京都芸大で3日間ほど上村淳之先生(日本画家・本学名誉教授)にデッサンや着彩を見ていただける機会があったんです。その時、先生はきっと軽い気持ちで仰ったんだと思いますが、「来年会えたらいいね」って言われたんですよ。それで、「じゃあ絶対会ってやろう」と思ったことも受験の後押しになったのかもしれないですね。
それと、他の大学のオープンキャンパスにも行ってみましたが、キラキラした「ザ・大学」という感じのところが多くて、今の場所に移転する前の京都芸大のキャンパスが自分にはしっくりきたというか、ここに自分は通うんだと思った記憶があります。

2.スタイルを模索した学生時代

大学生活をどのように過ごされましたか?

村山  こんなことを言うとよくないんですが、学部時代はほぼサボって遊んでしまっていました(笑)。日本画はすごく奥深くて、3回生の終わりか4回生になった頃に、このままだと日本画のことを何も分からないまま卒業してしまうと思って焦り出したんです。これでは頑張って大学に入った意味はないと思いました。それで火がついて、大学院に行こうと思って、3回生までで描いた3倍くらいの枚数を1年で描きました。それまでは本当に描いてなくて、ポートフォリオに載せる絵が全然なかったんです。追い詰められたからやれたんだと思いますが、運よく修士課程に進学したら今度は2年間という縛りがあって、2年のうちに何かを得て修了したいと思っていました。

個展で作品を拝見したんですが、俯瞰で見た建物の絵を描いておられますよね。その頃から似た雰囲気の作品を描いておられたんでしょうか?

村山  ああいう作風になったのは修士2回生の夏くらいです。だから修士課程も終わりが見えかけていたんですよね。その時もやばいと思って焦っていました。

どういう過程を経て、あの作風になったんでしょうか?

村山  当時、どんな些細なことでもいいから何か自分の機微に触れるものをキャッチしたいと日々思って過ごしていました。そんなとき、たまたま東京に遊びに行って、高い建物の展望台に上がったときに俯瞰で見た都市が本当に面白いなと思ったんです。私たちの住んでいる街だけれども、上から見ると全然見え方が違うし、明かりの分だけ知らない人の生活があって、車のライトが移動するのが見えて、生きているな、街が躍動しているなって感じたんですね。
それで、これを描くとして、どうやったら画面からこのドキドキやときめきが伝わるんだろうかということを考え始めました。四角や直線で構成される建物を普通に描いたら冷たい印象を与えるものになったんですが、いろいろ試行錯誤する中で、利き手ではない左手で描いてみたらうねうねした線を出しやすく、自分の制御できない線が描けて、「あれ、ちょっと近いかも」と思って楽しくなり始めました。右手だったら意思が入りますが、左手で描いたら意思が入りきらないんです。自分が制御しきれない線で描いた街は、自分が表現できる範囲をちょっと超えたような気がしましたし、自分の感じたドキドキやときめきを表現したものに近いような気がしたんですね。
ゼミの先生に絵を見せたら、「これをやってみよう」と言っていただきました。それまでは本当に反応が薄いというか、「できました」って言っても「うん」っていう返事しかないような感じだったんですけど(笑)。今のスタイルは、そこからずっと続いています。未だに飽きが来ないですね。

《記録:kyoto》 2014年制作

自分の意思とは反するところからアプローチされたというお話は勉強になります。

村山  そもそも日本画は、画材が自然のもので力を持っているので、制御しにくいですよね。そういうところは日本画のすごくいいところだと思っています。だから今も日本画の絵の具は好きで、絵の具の力を借りて描いています。

在学当時、友人や同級生はどのような存在でしたか?

村山  大学に入学したとき、同級生はみんな上手に見えました。銅駝美工(現京都市立美術工芸高校)を卒業した人もいて、すでに日本画の扱いが上手な人もいたし、みんな写生力が高くて、いつも引け目に感じていましたね。でも、そうやって周りの人たちを見て、「なんで自分はこんなに下手くそなんだろう」と焦燥感をつのらせることも必要なことで、そういう意味ではよかったなと思いますね。先輩方の絵を見ても、「どうやったらこんな絵が描けるんだろう」って驚いていたんですが、そういった環境にいられたことが嬉しかったです。

入学されて間もない頃は、卒業後に就職することも考えておられましたか?

村山  学部のときには教職課程を履修して、教育実習にも行きました。その頃は画家になるなんて夢にも思っていなかったですね。

昔のゼミはどんな感じだったんでしょうか?

村山  ゼミの授業では、自分から先生に見てもらいに行かないと見てもらえませんでした。当時は、先生方から何か奪いたいというか、獲得したいという思いでいましたね。学部のときは、学生は日本画を始めてせいぜい3~4年といったところですが、先生方は何十年もやられているので、経験値が違うわけですよね。学生は結構何でも知った気でいるんですが、実際には全然何も分かってないので、どんどん先生に聞いて、盗んでいかないといけないと思います。

インタビュアー:藤原華豊(美術学部美術科日本画専攻3回生*)、森川深雪(美術学部美術科日本画専攻3回生*)*取材当時の学年
(取材日:2023年12月8日・本学にて)

Profile:村山 春菜【むらやま・はるな】 日本画家

2009年京都市立芸術大学大学院美術研究科修士課程絵画専攻(日本画)修了。日影圭氏に師事。
2019年「ドキドキフォルダー」(日本橋三越)、2022年「ぐろーばる☆わーるど」(同時代ギャラリー)など精力的に個展を開催。
2008年「第40回日展」初入選を皮切りに、2009年「第41回日展」特選、2013年「京展」京都市美術館賞80周年記念特別賞、2014年「京都府美術工芸新鋭展」読売新聞社賞、2016年「改組 新 第3回日展」京都新聞社賞、2017年「第1回新日春展」日春賞、2021年「第8回日展」特選、2023年京都府文化賞奨励賞、京都市芸術新人賞、2024年「第9回東山魁夷記念日経日本画大賞」大賞など、受賞多数。