エクスパンデッド・シネマ

既存の商業映画のようにひとつのスクリーンへひとつの映像が投影されるのとは異なる形式で上映される映像作品を指す。無声映画時代に大作商業映画を3面スクリーンで上映する試みなどがなかったわけではないが,とりわけ1960年代半ばから,実験映画作家や美術家によって,映画の上映を映画館の外に広げていく実験が試みられた。1960年代は同時に,ヴィデオ・レコーダーが導入された時代でもあり,ブルース・ナウマン,ビル・ヴィオラ,ナムジュン・パイク,1971年からメディアを使ったパフォーマンスが行われた劇場「キッチン」を開設したスタイナ&ウッディ・ヴァスルカらによって,映画や映像の概念が拡大していった。

1960年代に行われた映画の技術的・物質的側面を破壊・転覆しようとする試みは,フィルムを傷つけたり,パンチで穴を開けたり,色を塗ったり,指紋で覆ったり,空のフィルムや真っ暗の画面や,露出オーバーのフィルムが用いられることがあった。さらには,カメラやプロジェクターなどの機材が改造されて,通常とは異なる方法で用いられた。フィルム映像をスクリーンではなく,流れる水面や人間の身体の表面に投影したロバート・ホワイトマンをはじめとして,多くの実験映画作家や美術家は,複数のスクリーンに複数の映像を投影する試みを,イベントやパフォーマンスとして行った。

ニューヨークでクレス・オルデンバーグやアラン・カプロー,マース・カニングハムやイボンヌ・ライナーらと活動していたスタン・ヴァンダーピークが1969年に来日を行っているが,日本でも実験映画に関する関心の高まりのなかで,「拡張する映画」ないし「拡張映画」が、映画作家や美術家たちに注目され、1970年代前後のさまざまな試みに結実する。

このように複数画面で展開するフィルム映像は,商業映画における単線的な物語とは異なる,非線形的な物語構造の探求につながっていった。それと並行してフィルムを使っていた実験映像の作家によるビデオ機材への関心も含めて,観客がイメージとインタラクティブな関係へと入り込んでいく1970年代のクローズド・サーキットのビデオ作品の探求にもつながる。

サンフランシスコにおいてフリー・スピーチや反戦活動に刺激された美術家たちは1968年にアント・ファームを結成し,仮設的な空間を使ったパフォーマンスやビデオ・アートの活動を繰り広げた。1970年にロサンゼルス郡立美術館に「アートとテクノロジー」展が行われたが,16人の男性の美術家の参加に対して女性の美術家がいなかったために,そのことに抗議するフェミニストの美術運動が西海岸で盛り上がり,フィルムやヴィデオ・アートの実践が広がっていった。ジェリ・アリンは1976年に女性ヴィデオ・センターを設立した。また「ゲリラ・テレヴィジョン」に代表されるように,アクティビズムやパブリック・アクセスの観点から,映画館や美術館など既製の領域とは異なるオルタナティブな映像ネットワークを模索する美術家たちのグループ活動が活発化した。

1972年に山口勝弘や中谷芙二子らが主催した「ビデオひろば」では,民生化したビデオ機材を使って市民と行政や企業とのコミュニケーションの回路を創りだすビデオ・アクティビズムと社会実践が繰り広げられた。中島興は「ビデオアース東京」を主催し,ケーブルTVを使って作品を放送した。

1979年には「東京ビデオフェスティバル」,1981年には中谷芙二子による「ビデオギャラリーSCAN」,1985年からは「ふくい国際ビデオフェスティバル」などが開始され,1980年代を通してヴィデオアートの展示と流通が活発になっていった。

1999年に中村政人によって行われた「秋葉原TV」では、秋葉原電気街全域のテレビ・モニタが使用された。

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