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山本容子さん

1. 京都芸大との意外な出会い

山本 私が高校生活を送った時代は,日本の芸術各分野で新しい形式が胎動し,「70年代アヴァンギャルド」という言葉が使われるようになった時代でした。演劇の世界では寺山修司さんや唐十郎さんといった劇作家の登場や「テント小屋」の出現など,それまでの演劇の様式や文脈とは明らかに様相を異にするものが現れてきて,大きな転換点を迎えていました。芸術を志す人たちは,世の中の変化を当時の演劇から感じとることができた時代であり,演劇の中に「総合芸術」というものが発露していました。

interviewer京都芸大を目指されたのはなぜでしょうか。

山本 大阪の女子高に通っていた私は,演劇部に所属して脚本や演出を担当していました。当時の私の興味は演劇の方が大きくて,実は絵にはあまり関心がありませんでした。ある日,天王寺公園にテント小屋が建つというので,新しもの好きな性分の私は友人と観に行ったところ,上演された演劇は,これまでに学んだものとは全く違う形式のものでした。とても驚いた私は,ただ驚いただけでなく,自分も参加したいと思い,演劇小屋の裏手に行き相談してみたところ,「うちの大学に来たらできるで」と答えた人がいました。その人は京都芸大の人で,当時,大学内にあったアトリエ座という演劇クラブに所属された方だったんですね。そこで私は「それなら京都芸大の演劇部に行ったらいいんだ!」と考えたわけです。めちゃくちゃ単純なんですけど,きっと何かあるはずという直感だったんでしょうね。それで,学校では美術の成績は悪くなかったし,普通にやればなんとかなると思って受験したものの不合格でした。そして,一浪して美術を学ぶ研究所にも通い,めでたく合格したわけです。


学生時代,京都芸大の油画教室にて(1975年)

interviewer大学の雰囲気はどのような感じでしたか。

山本 私が入学した当時は,旧来のアカデミックな大学運営の改革が行われ,入試方法が変わったところでした。それまでは入試の段階で日本画,洋画,彫刻と専攻別に分かれていたんですが,入学してから自分で選択するシステムになりましたし,試験内容も木炭デッサンから鉛筆デッサンに変わるなど色々と変更されました。ですから,学内にはそうした入試を経て入ってきた学生もいれば,以前の制度で入った学生もいて,それぞれに価値観も違うわけです。大学に入学した時期は,ある種ごちゃまぜで揺れている激動の時代,自分の変化はもちろんのこと世の中の変化の両方を肌で感じることが必要ですね。

インタビュアー:木塚奈津子,千葉あかね(ともに美術研究科絵画専攻(版画)修士課程1回生*)*取材当時の学年

(取材日:2015年11月9日・京都市左京区内ホテルにて)

Profile:山本容子【Yoko YAMAMOTO】銅版画家

1952年埼玉県生まれ。1978年京都市立芸術大学西洋画専攻科修了。

1978年日本現代版画大賞展西武賞,1980年京都市芸術新人賞,1983年韓国国際版画ビエンナーレ優秀賞,1992年『Lの贈り物』(集英社)で講談社出版文化賞ブックデザイン賞,2007年京都府文化賞功労賞,2011年京都美術文化賞,2013年京都市文化功労者表彰など国内外の多数の賞を受賞。

都会的で軽快洒脱な色彩で,独自の銅版画の世界を確立し,絵画に音楽や詩を融合させるジャンルを超えたコラボレーションを展開。数多くの書籍の装幀,挿画をてがける。

また,近年は新たなライフワークのひとつとして“ホスピタル・アート”に取り組んでいる。