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山本容子さん 3/4

3. 作家活動の軌跡を記録する

interviewer銅版画に出会った当時から作家としての道を歩まれようとお考えでしたか。

山本 その点については,吉原英雄先生から大きな影響を受けています。吉原先生は世界的に有名な現役のアーティストでしたから,国内外問わず色々な方との交流をお持ちで,版画研究室には学内外から色々な方がお見えになりました。研究室は先生の方針もあり,扉はいつも開けっ放しで誰でも出入りできたため,先生が話をされる様子を横で聴かせていただいていました。そんな空気の中で学生生活を送った私は,「芸術家になりたい」というよりも,多くの才能ある人たちと交流できる芸術家の素晴らしさを実感していました。ですから,アーティストになりたいという目標があるのではなく,こんな感じでありたいという空気感のようなものが先にありました。それがやっぱり一番大きかったと思います。

 生きていくためにはお金が必要になりますが,私の場合は紙とインクだけあれば,お金はそれほどなくてもよいと思っていました。それよりも作家ですから,技術が伴っていかないことには話になりません。ライバルは沢山いるわけだから,技術でしのぎを削っていかなければいけない。アートの世界は,そんなに簡単なものではありません。皆と同じことをしているだけでは面白くありません。何か違うことをしないといけない。お金がないとか,時間がないとか,言い訳はいくらでもできるけれど,自分を知るためにも制作をするエネルギーが必要です。アートとは人々に半歩先の未来を提示するものであり,それを仕事とするのであれば過去に浸っていてはいけません。そして,それにもまして誰にでもできる世界ではないと思います。



東京の画廊“ガレリア・グラフィカ”での個展「ポートレートシリーズ」にて(1982年)

interviewer学生時代にご自身の将来像の確立に向けた活動をされていましたか。

山本 当時は国際的な版画コンクールが割と開催されていた恵まれた時代でした。とにかく必死になって応募していたのです。そして,専攻科の時に第二回京都洋画版画美術展で新人賞を受賞しました。この賞の副賞は海外研修旅行で,ヨーロッパに1箇月近く行くことができたから若手作家の目標でした。また,初の個展は23歳の時に東京で開催しました。たまたま東京のギャラリーのオーナーが私の初個展をご覧になり,興味を持ってくださったんです。この出会いは私にとって本当に幸運なことで,この方が毎年東京で個展をさせて下さり,作家としての私を育ててくださいました。

interviewer学生の間にやっておいた方がよいと思われることはありますか。

山本 学生時代に限らず,作家としての自分の年表をつくるべきだと思います。それも細かくないと意味がありません。その辺りをきっちり残していかないと忘れてしまいますし,とにかく記録するという感覚が大切です。そうすることによって,自身の作家としての軌跡が見えてくる。その軌跡をたどり,右往左往しながら続けてきました。続けていくためには思考することが必要です。

 私は,1975年から自身の作品のカタログとして「ポートフォリオ」を制作しています。マチスにも「ジャズ」のようなシリーズがありますが,オリジナル版画を使った書籍に近い世界です。これを毎年作り個展で発表してきました。このポートフォリオが,私を書籍の世界に導いてくれたのです。

 こうして制作を続けてきたことが結果として賞の獲得につながったり,色々なジャンルの仕事を運んでくれたんだと思います。

インタビュアー:木塚奈津子,千葉あかね(ともに美術研究科絵画専攻(版画)修士課程1回生*)*取材当時の学年

(取材日:2015年11月9日・京都市左京区内ホテルにて)

Profile:山本容子【Yoko YAMAMOTO】銅版画家

1952年埼玉県生まれ。1978年京都市立芸術大学西洋画専攻科修了。

1978年日本現代版画大賞展西武賞,1980年京都市芸術新人賞,1983年韓国国際版画ビエンナーレ優秀賞,1992年『Lの贈り物』(集英社)で講談社出版文化賞ブックデザイン賞,2007年京都府文化賞功労賞,2011年京都美術文化賞,2013年京都市文化功労者表彰など国内外の多数の賞を受賞。

都会的で軽快洒脱な色彩で,独自の銅版画の世界を確立し,絵画に音楽や詩を融合させるジャンルを超えたコラボレーションを展開。数多くの書籍の装幀,挿画をてがける。

また,近年は新たなライフワークのひとつとして“ホスピタル・アート”に取り組んでいる。