閉じる

共通メニューなどをスキップして本文へ

ENGLISH

メニューを開く

皆川魔鬼子さん

1. 幼少時代~京都芸大時代

小さい頃から

interviewer小さい時から洋服が好きでしたか?

皆川 父も祖父も染織工芸の作家で,自宅に染料がたくさんありましたので,自分で毛糸を染めてニットを編んだり,生地を染めてお洋服を作ったりしていました。
 私の小さい頃は,そんなに子供服の既製服がなかったときだから,自分で作ったり,母が祖父の古い着物をリメイクした服を着てたんですよ。母はお友達に西洋の刺繍を教わっていたらしく,リメイクした服にかわいい刺繍をしてくれました。
 リメイクした服を着て,新聞の連載に載ったこともありますよ。“古い着物をいかにしてかわいく着るか”というコーナーで,確か3才か4才の頃でしたね。新聞記事に出ていたのを覚えてらした小学校の先生に,「洋服を買いに行くときは,一緒に生地を見に来てね」と言われて一緒に行ったこともあります。まだ1年生だったと思いますけど,先生と放課後にお洋服の生地を選びに行って,「これがいいですよ」なんて“アドバイス”をさせていただいた記憶があります。

interviewer小さい頃から“染める”ことに触れられていたんですね。

皆川 自分の意思じゃなくて,なんとなくですよ。そういう環境がたまたまあっただけで,別に自分の将来と結び付けていた訳でもなかったんです。
 実は,高校生の頃はフランス文学をやりたいと思ってました。だから,フランス語の勉強がやりたかったけど,高校の交換留学のプログラムに応募したらアメリカに行くことになってしまって,全然フランス語のお勉強ができませんでした(笑)。
 その後,進路についていろいろと考えた結果,最終的に「小さい頃からずっと好きだった染織を学ぶために京都芸大に行こう。」と思ったんですよ。祖父からも,「女性もこれからは手に職を持たないといけない。自分の仕事を持って自立しなさい。」と後押しされましたね。

京芸生時代

interviewer大学生活での思い出を教えてください。

皆川 実技では,制作の合間に友達や先輩と鍋を作って食べたりしたことが楽しかったです。染織専攻ですから,生地を染めるための鍋がいっぱいあるでしょう。キャベツとか白菜とか,午前中のデッサンで使ったいろいろなモデル―食材ですけど,それを鍋にして食べちゃってました(笑)。

interviewer大学生らしくてすごく楽しそうですね。

皆川 そういうことに,みんな,すごくのるんですよ。いろんなことにエネルギーが集まって,わーっと盛り上がってね。先輩の木田安彦さん(美術専攻科(現大学院)デザイン専攻修了)がいらっしゃった「京都芸大阿波踊りの会」で,みんなでお揃いの浴衣を作ったりしました。「京美の山登りの会」(※京美は京都市立美術大学時代の略称)で,北山や比良山に登りに行ったり,地下足袋を履いて沢登りするなんていうこともありましたし,「染織山岳会」という,染織専攻の学生が全員参加する山岳会もありました。みんなで荷物を背負って山に登って,登った所で真面目に植物の写生をするんです。どれも京都芸大の学生ならではの雰囲気で,楽しかったです。

interviewer印象に残っている授業はありますか。

皆川 模写の授業です。模写といっても絵画の模写じゃなくて,古いテキスタイル(布地・織物)を模写するの。西陣や室町に行って,正倉院の御物みたいな,古代エジプトのコプト織物だったのかな,古い生地をそのまま模写するんです。糸を1本ずつ描くことで,より深く観察して織物がどうなっているか調べていくんですね。黙ってずうっと描くんですけど,描いていくうちに織り方とかがわかってきて,おもしろかったですね。

 他にも,先生方が風呂敷に重い本をいっぱい包んで持ってきてくださったことが印象的ですね。特に文様史の本に魅かれました。私の時は,染織専攻には佐野猛夫先生(名誉教授),三浦景生先生(名誉教授),写真のアーネスト・サトウ先生などがいらっしゃって,アート関連の本だけじゃなくて海外の本や,学校の図書館に置いていないような古書などを見せてくださいました。今考えると,技術だけじゃなくて学生の視野を広げてくださるような,いろいろなことを教えてくださっていたと思います。

interviewer私も先生方と接していて,作家としてだけでなく,人間として成長させてもらっているということをよく感じます。

皆川 著名な先生方も,学生のことを思っていろいろ工夫してくださっていたんですよね。そういう熱心さが印象に残っているんです。それまで自分が出会ったことがない新しい世界を見せていただいて,日々,本当にワクワクして過ごしていました。今思うと,その全てをもっとまじめに聞いて,覚えておきたかったと思います。



卒業から2~3ヶ月後,鹿ヶ谷のアトリエで。
「レイヤーカットとつけまつげが当時の流行でした。その頃,雑誌「anan」に自分で染めて作った服が掲載され,嬉しかった記憶があります。」

interviewer学生時代からアトリエを持っていたと伺っていますが,どのような作家活動をされていたのですか。

皆川 私の学生時代は,東京オリンピックが終わって,新幹線ができて,大阪万博の開催が決定してと,日本は高度経済成長のまっただ中という時代。ちょうど関西系の前衛美術グループ「具体(※)」が花盛りで,世界中の注目が関西に注がれてて,いろんなアーティストが京都にも来られてたの。そういう方の情報を聞き付けては,友達とみんなで押しかけて,お話を聞きに行ってたんですよ。

 当時のヒッピーカルチャーの象徴だったタイダイ(絞り染め)Tシャツを「染織をやっているんだったら染めてほしい」と言われたのが始まりで,注文がくるようになって,染める場所が必要になってきた,というのがアトリエを持つに至ったきっかけなんです。もともと絵描きさんのアトリエだった20畳ぐらいのスペースを借りて,染めるスタジオにしたの。注文されたものを作る作業場として始まったアトリエで,自分の染めの作品を作っていました。

interviewer学外でも活発に活動されていたんですね。

皆川 私は圧倒的に外に向いて活動していましたね。大学の授業は良いのがいっぱいあって,デザインの歴史とか学問的な授業はちゃんと受けましたし,それを学んでおいて今でもすごく良かったと思っています。午後の自由制作の時間は,自分のアトリエで制作したり,友達といろんなところに出掛けて行って人に会ったり,自分で思いつく限りのやりたいことをやっていました。先生も学生に対して寛容で,やりたいことを自由にさせてくれました。あの頃は,世の中の動向があまりにも激しくて,今いろんな世界を見ておきたいという思いが強かったです。私自身,「これからの時代はバラ色なんだ」と思っていて,将来については心配していなかったですし,好きなことばかりしていました。

※「具体」

具体美術協会(具体)は,1954年,関西の抽象美術の先駆者・吉原治良をリーダーに,阪神地域在住の若い美術家たちで結成された前衛美術グループ(1972年解散)。グループ名は,「われわれの精神が自由であるという証を具体的に提示したい」という思いを表している。

インタビュアー:美術学部 プロダクト・デザイン専攻 3回生 吉田絢子
(取材日:2012年11月16日)
(取材場所:株式会社 イッセイ ミヤケ 本社)

Profile:皆川魔鬼子【みながわ・まきこ】テキスタイルデザイナー,株式会社 イッセイ ミヤケ 取締役

京都市立美術大学(現京都市立芸術大学)美術学部 染織科卒業。在学中より自分のアトリエをもち,染織作家としての創作活動を始め,数多くの作品を発表。
1970年に三宅一生氏と出会い,翌71年から(株)三宅デザイン事務所でテキスタイル・ディレクターを務める。
2000年(株)イッセイ ミヤケの中にブランド「HaaT」を創設,トータルディレクターとして,新製品のプロモートを始め,現在に至る。
2002~08年 多摩美術大学美術学部 生産デザイン学科 テキスタイルデザイン専攻 教授,2008年〜 同客員教授,2013年〜 京都市立芸術大学 客員教授。
織物(テキスタイル)デザインでの活躍はめざましく,素材の元となる糸まで辿り研究を重ねている。国内外の伝統的技術を現代的に応用し,加工方法や新素材を開発するなど,リサーチと研究から新たな布地を作り出す。そのアプローチと作り出される布地は,ファッションデザインの世界にテキスタイルの新たな存在を確立するきっかけとなってきた。
主な受賞に,第8回毎日ファッション大賞の第1回鯨岡阿美子賞(90年),イギリス「TEXTILE INSTITUTE」から「COMPANION MEMBERSHIP」を授与(95年),毎日デザイン賞(96年),第25回京都府文化賞功労賞(2006年)受賞。
著書に,『テクスチャー』(講談社,1987年)。