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皆川魔鬼子さん 2/4

2. デザイナーとして走り出す

interviewer学生時代に,すでに作家活動をされていたのに,卒業後はデザイン事務所で仕事をされたのですね。

皆川 私自身は卒業したら,ロンドンに留学したいと思っていました。デザインの勉強をしようと思っていたんです。それで,伝手(つて)を探していたときに,たまたま出会った人が,三宅一生さん。京都でいろんなデザイナーの合同のショーがあって,三宅さんはその中でずば抜けて良い作品を作っていて,カッコよかったんですよ。パリやニューヨークでアシスタントデザイナーとして活動された経歴をお持ちだったから,「この人だったら知り合いがたくさんいるに違いない」と思って,厚かましくもショーの後に訪ねていって,「こういう者です,ロンドンに留学したいんですけど,誰か知り合いはいませんか?紹介してください。」ってお願いしたんですよ。

 そうしたら三宅さんから,「ロンドンよりもこれからは日本だよ。僕には生地のデザイン,テキスタイルをやってくれる人が必要だから,あなたができるんだったら,手伝ってほしい。」と言われたんです。突然の話で,「ええっ?」って,それはもう驚きました。

interviewerすごい!初対面の三宅一生さんに,一緒に仕事をしないかって誘われたんですね!でも,ロンドンに留学したいと思っていた皆川さんにとっては,日本に残ってほしいと言われて,複雑な気持ちになりませんでしたか。

皆川 そう,「外国に行きたいのに」ってね。でも,そう思いながらも「手伝えるなら」とお引き受けして,三宅デザイン事務所で仕事を始めることになりました。



タトゥ シャツ 1970 「三宅一生の発想と展開―Issey Miyake east meets west」(1978年 平凡社)より

 これが最初期のコレクション,「タトゥ シャツ」。ジミ・ヘンドリックスとジャニス・ジョプリンが1970年に亡くなった時に,二人を敬愛する三宅さんに,彼らをモチーフにした入れ墨のTシャツを作ってほしいって言われたの。面白い作品でしょ。でもね,私,そもそも入れ墨の描き方がよくわからないので,どうしようって考えて,太秦にある東映株式会社の京都撮影所に行って,「遠山の金さん」の入れ墨を描いている人を紹介していただきました。いろんな入れ墨のルールや渦巻き,桜吹雪などの模様,ぼかし方などの技術を教えてもらい,毎日通って練習しました。

interviewerお見せいただいている「三宅一生の発想と展開」は,高校生の時に読ませていただきました。

皆川 この本でも紹介されているけれど,イッセイ ミヤケの衣服づくりは,ずっと「一枚の布」という考え方が貫かれていて,ヨーロッパとか日本とか,国や地域,文化などの枠を超えて,衣服が「身体とそれをおおう布である」ことを追求してるんです。

 株式会社ワコールホールディングスから,初めてボディウェアと一体化した水着のようなもののデザインを依頼されたとき,三宅さんは,身体の延長としての衣服をデザインしようとしていたんです。三宅さんがオフィスにふらっと来て,私に「プリント柄をちょっと描いてみて」と言われ,その場でマジックで線を描いたら,「よし,それをプリントにしちゃおう」と,そのままボディウェアの柄として採用されました。

 日々,そういったいろんな思いつきから生まれた話が,どんどん衣服になっていったんです。アシスタントデザイナーとして手伝っている間は,「楽しいし,続けてもいいかな」という感じで引き受けていました。

interviewerいつか留学したいという思いを持ちながら,日本で忙しくされていたんですね。

皆川 「ロンドンはそのうちに行けたらいいかな」ぐらいに思いながらやっているうちに,仕事が面白くなってしまいましたね。当時の日本は高度経済成長の真っただ中ですから,仕事がどんどん来るし,あまりにも忙しくてじっくり考えてる時間もなくなってしまい,行ける状況ではなくなってしまった面もありましたが。

 三宅さんは,日本から新しい衣服を発信するには,アメリカの若者が履いているようなジーンズのような存在が必要だと考えてらして,日本も昔からのすごく丈夫なコットンがあったから,それを使って衣服を作ろうとしていたんです。刺子(さしこ)の生地,しじら織,あと旅館で出すような丹前とか,そういう素材を全国のいろんな生地の産地に,事務所のみんなで行って探しまわりましたね。行った先で,着物用の小幅の生地を洋服が仕立てられるように広幅にできないかと織物屋さんに交渉したり,本当にいろんな日本の織物の産地に行ったんですよ。

 探すだけじゃなくて,丹波篠山の丹波木綿や滋賀県の蚊帳(かや)の生地を勉強したり,兵士のゲートルを編むニットの機械の使い方を学んだり,足袋裏の生地を泉州で作っているのを教えていただいたり,全国各地を飛び回って調査や研究することが面白かったですね。他にも,調査で得た知識を基にして,学生服という日本独自のものをいろんな素材を使って作ったらどうなるか,というような実験的なこともやっていました。

 80年代は,日本だけじゃなく,海外の生地やクラフトをリサーチし始め,さらに忙しくなりました。インドの伝統的なクラフトマンの仕事を研究して,その素晴らしい素材を日本に紹介するということもしていました。

interviewer実はこれ(右写真),昔からイッセイ ミヤケのネクタイの大ファンという方からお借りしてきたものなんですが,この中に皆川さんがデザインされた生地はありますか。

皆川 ええっ?本当だ,すごい。随分使いこなしてらっしゃるじゃないですか。私も最初はネクタイの生地もデザインしていましたし,これは私がデザインしたものかもしれないです。ハンカチ,スカーフ,こたつ布団なども手掛けていました。今思えばいろいろなものをデザインする機会があり,いろんな産地や工場に行って交渉したことで,随分勉強になったと思います。

 イッセイ ミヤケは,2回,パリコレに出ているんですけど,1回に何千万円もの費用が確実に必要になるんです。その費用を捻出するために,イッセイ ミヤケのライセンスでいろんなものを作って,売って,その売上げを全部パリコレに使ってたんです。

interviewerそういう時って,皆川さんの中には葛藤というか,本当は作りたいものは別にあるのに…というような思いはありませんでしたか。

皆川 それはもう,パリコレという目標があるから,スタッフも全員,目いっぱい働きましたよ。ソニー株式会社や日本コカ・コーラ株式会社,株式会社資生堂などの企業のユニフォーム,救急隊のユニフォームのデザインをしたこともあります。作品集に載っているのは,いわゆる“魅せる”仕事だけど,それ以外にもたくさん仕事はあるんですよ。

インタビュアー:美術学部 プロダクト・デザイン専攻 3回生 吉田絢子

(取材日:2012年11月16日)
(取材場所:株式会社 イッセイ ミヤケ 本社)

Profile:皆川魔鬼子【みながわ・まきこ】テキスタイルデザイナー,株式会社 イッセイ ミヤケ 取締役

京都市立美術大学(現京都市立芸術大学)美術学部 染織科卒業。在学中より自分のアトリエをもち,染織作家としての創作活動を始め,数多くの作品を発表。
1970年に三宅一生氏と出会い,翌71年から(株)三宅デザイン事務所でテキスタイル・ディレクターを務める。
2000年(株)イッセイ ミヤケの中にブランド「HaaT」を創設,トータルディレクターとして,新製品のプロモートを始め,現在に至る。
2002~08年 多摩美術大学美術学部 生産デザイン学科 テキスタイルデザイン専攻 教授,2008年〜 同客員教授,2013年〜 京都市立芸術大学 客員教授。
織物(テキスタイル)デザインでの活躍はめざましく,素材の元となる糸まで辿り研究を重ねている。国内外の伝統的技術を現代的に応用し,加工方法や新素材を開発するなど,リサーチと研究から新たな布地を作り出す。そのアプローチと作り出される布地は,ファッションデザインの世界にテキスタイルの新たな存在を確立するきっかけとなってきた。
主な受賞に,第8回毎日ファッション大賞の第1回鯨岡阿美子賞(90年),イギリス「TEXTILE INSTITUTE」から「COMPANION MEMBERSHIP」を授与(95年),毎日デザイン賞(96年),第25回京都府文化賞功労賞(2006年)受賞。
著書に,『テクスチャー』(講談社,1987年)。