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名和晃平さん

1. モノづくりと向き合った学生時代

interviewer幼い頃は何に興味をお持ちでしたか。

名和 ものを作ったり絵を描くのが好きな子どもでした。小学校~中学校~高校と上るにつれて,少しずつ作るものも変わっていって,そのまま大学に入った感じです。スポーツも好きで,少年野球に入ったり,中学校~高校~大学ではラグビーをやっていました。京都芸大では合格発表の時点で,ラグビー部に肩を叩かれ,グラウンドに連れて行かれていましたね(笑)。

interviewer大学入学までに思い描いていた夢はありますか。

名和 高校は進学校でしたから,周りのみんなは受験勉強に必死でした。勉強して有名大学に入り,良い会社に入る,そういう雰囲気が色濃かったのですが,それがすごく嫌で,その敷かれたレールに自分が入ることなく,いかに自由になるかということが,京都芸大への進学を志した動機でした。子どもが思い描くような,こういう職業に就きたいという夢は特に持っていなかったですね。

interviewerどのような学生生活を過ごしましたか。

名和 大学4年間は,6~7割はクラブ活動のラグビーをしていたかな。残りは,お酒を呑むのと制作活動(笑)。大学の課題も真面目に取り組んでいましたけど,何をしていけば良いか正直分からなかったです。

interviewer京都芸大での授業はどのような感じでしたか。

名和 当時は,先生が放任主義だったから授業は学生任せで,横に座って指導するとかじゃなくて,訊きたいことがあれば,いつでも訊いてあげるみたいな感じでした。だから,作る意味みたいなものを,いつも自問自答していないともたないというか,自分の中に答えがないと続かない場所だったかな。受け身な学生の中には制作活動が滞る人もいましたね。だけど,僕にとってはこの環境が合っていて,大学には院生時代も含めて結局9年間在籍したわけですが,思う存分,自己格闘させてもらったのが良かったのかもしれません。先生とのコミュニケーションは少なかったけど,いまだに授業の内容は覚えていますよ。あの先生は,こういう物の見方をするとか,それぞれの先生の思考やアドバイスの仕方みたいなものは,いまだに全部自分の中にありますね。

interviewer学生時代に考えていたこと,抱いていた葛藤などがあればお聞かせください。

名和 学生時代は,どうやって生きていくのか,どうやって食べていくのかが見えなかったから不安もありました。普通の大学の学生だったら,卒業前に色々と就職活動するけど,京都芸大は就職活動をしている人は少なくて,みんな何となく卒業して,これからどうしようかなっていうのんびりした雰囲気でした。しかし,自分はこの周囲の雰囲気に取りこまれるとマズいなと思っていましたし,むしろ,そのぬるま湯的なムードに怒っていました。「こんなことでアーティストになれるわけがない」「モノを作って生きていくのって,そんなに生ぬるいことではないだろう」と。ですから,ビジョンを共有できる人とだけ付き合うようにしていましたし,そういう人達とは今でも仲間であり続けています。

インタビュアー:河原 雪花(美術科1回生*)*取材当時の学年

(取材日:2015年11月25日・SANDWICHにて)

Profile:名和 晃平【Kohei NAWA】彫刻家

1975年大阪府生まれ。1998年京都市立芸術大学美術学部彫刻専攻卒業,1999年英国Royal College of Art交換留学,2003年同大学大学院博士(後期)課程彫刻専攻修了博士号取得。独自の「PixCell」という概念を機軸に,多様な表現を展開。2009年京都市伏見区にクリエイティブ・プラットフォーム「SANDWICH」設立。2011年東京都現代美術館で個展「名和晃平―シンセシス」を開催,2013年「犬島『家プロジェクト』」や「あいちトリエンナーレ2013」に参加。京都造形芸術大学教授。