林田明子さん
1. 京芸入学まで
京芸入学まで
京芸を目指されたきっかけは
林田 母が歌うことがすごく好きで、オペラ歌手のようにいつもわーっと歌っていたし、父もクラシックの音楽が好きで、レコードをばんばん鳴らしている家庭だったので、音楽自体は身近にありました。でも、歌い手になりたいとか、音楽家になりたいとか、そういうことを思ったことは一度もなく、京都市立堀川高校音楽科(現:京都市立京都堀川音楽高校)に入ってからも、それは同じでした。
高校もまあ駄目だろうと思いながら受験したところ運よく合格したという状況だったので、入ってから苦労しましたね。自分の前にある課題が途方もなく大きく、手探りでそれと格闘していました。でも、そこでいい先生に巡り会い、「周りと比べないで、二人三脚で頑張るしかない。」とおっしゃる先生の指導のもと、できない自分と戦う日々でした。高校3年間は一生で一番よく勉強した期間で、成長もしましたが、歌の道は始まったばかりだったので、音楽大学進学は自然の成り行きでした。
なぜ京芸かと言うと、私立の音大は授業料が高いし、向日市の生まれ育ちなので、他府県だと下宿でお金がかかる。また、私がついていた先生が三井ツヤ子先生(現名誉教授)とお知り合いで、高校3年生のときに紹介していただいて、その御縁もあり、何の迷いもなく京芸を目指しました。
大学生活
2001年「果てしなきオルフェウスの歌」の舞台
(ドイツ・ラインスベルク城室内オペラ)
大学に入られてからはどのように過ごされていましたか
林田 入学式の日に、先生から「とにかくなんでもいいから1つ外国語をマスターしなさい。これからはインターナショナルじゃないとだめだ」と言われて、それが何を意味するのか最初はわからなかったんですが。三井先生の影響もあって、ドイツ語を話せるようになろうと語学学校にも通いました。
オペラの授業はどのような雰囲気でしたか
林田 オペラはもともと演劇出身の先生が授業してくださっていて面白かったです。全部手作りじゃないですか。舞台装置も使いまわして裏方も全部学生で。「いい思い出」というか、なかなかできない経験でしたね。
学外ではほかに演奏活動をされていましたか
林田 学部の時はそこまでなかったですね。歌は楽器の人と違ってスタートが遅いですからね。初めてリサイタルをしたのは大学院を卒業してからです。その後、すぐ留学してしまったんですけど、留学中は、2年に1回くらい日本に帰ってきてリサイタルをしていました。
学校の授業で学んだことで、卒業後や現在、生きていると思われることは
林田 せっかく日本で勉強したことが留学したり違う先生についたりして一からやり直しになるという話をよく聞きます。私の場合は、それはなかったです。京芸で積み上げてきたものが無駄になることはなく、これまでの経験の上に積み上げていくことができたんです。だからあの時間が無駄だったとか、無駄な努力をしたとかっていうのがなかった。当たり前のようだけどすごいことだなと思います。
インタビュアー:音楽学部声楽専攻4回生 井本千尋
(取材日:2012年2月13日)
Profile:林田明子【はやしだ・あきこ】声楽家
京都市立芸術大学大学院音楽研究科修了。ウィーン国立音楽大学リート・オラトリオ科、並びにオペラ科卒業。
日本、欧州各地でのリサイタルを活動の中心に置く傍ら、音楽祭などでのオペラ公演、国内外のオーケストラなどにも多く出演している。その発音の明瞭さ、歌詞の内容に沿ったきめ細やかで多彩な表現力には定評がある。