酒井健治さん
1. そこじゃないと意味がない。
空想好きな少年から、京芸受験へ
幼少期はどんな子どもでしたか。
酒井 変わっていました。物心つくぐらいの4~5歳の頃から、その年齢にふさわしくないことをぼんやり空想している、そんな感じの子どもでしたね。道端に咲いている花を見て、雨が降ったらどうなるんだろうとか、散ってしまったらどうなるんだろうとか、その後のストーリーを想像していました。まず頭に浮かんだイメージから更に次のイメージを膨らませるような、そういう作業を自分の頭の中で延々と空想して楽しんでいました。
空想好きな感じですか。
酒井 そうですね。だから、作曲などの創作をする仕事に打ち込むようになったのかも知れません。
どんなご家庭でしたか。ご両親が音楽をされていたりといった環境だったのでしょうか。
酒井 もう全然(笑)。家族で音楽をしているのは僕だけなんです。兄と妹がいますが、二人とも音楽はしていないですね。
京都芸大を目指そうと思ったきっかけは、どんな事でしたか。
酒井 僕が作曲の勉強を本格的に初めたのは高校生のときですが、正直に言いますと、そのときに習っていた先生が大阪の私大の先生だったんです。先生は当然、その大学に進学させたいと思っていたでしょうけれども、うちはお金持ちでも、音楽家でもないので、経済的なことなどを考えて「京都市立芸術大学に行きます」と言いました。京都芸大のカリキュラムについてはその頃は何も知りませんでした。そんな状態のまま京都芸大を受けたので、面接では先生にそれを見透かされて、色々と質問され、戸惑ったのをよく覚えています。面接官として入られていた作曲専攻の前田先生は、そのときに苦笑いされていましたね。
じゃあそのときは、「もうダメだ」って思われました?
酒井 はい。もう本当にショックを受けて、絶対浪人だなと覚悟しました。凄く落ち込んで、京都から宝塚まで、遠いんですけど、電車の中で鬱々としたまま帰りました。
ご両親からは浪人の許可は出ていたんですか?
酒井 受験したのは、京都芸大だけでしたので、落ちたらしょうがないねって感じでした。
僕も同じ状況でした。
酒井 ですよね。関西の芸術系の学生は、みんな京都芸大に入りたいから。そういえば僕、フランス国立パリ高等音楽院を受けたときもその一校だけでした。「そこじゃないと意味がない」と思って。
京都芸大に入学する前は、どういった曲を作りたいと考えていたのですか。
酒井 基礎的な理論演習と言っても良いと思いますが、変奏曲形式で曲を書くとか、あるいはリート形式で曲を書くとか、そういった勉強をしていました。使っているハーモニーも、ロマン派和声といった感じでしたね。現代音楽とか全く勉強していなかったです。
京都芸大の思い出
どんな学生生活でしたか。
酒井 和気あいあいとして、凄く楽しかったですよ。夏の演奏旅行があるんですけど、結構極限状態というか、一日何公演もいろんな所でしますから、疲れてくるんですよね。するとだんだんと怒りっぽくなっちゃって、友達ともお互い言い張って喧嘩になったりしました。そういうのも今となっては良い思い出ですよね。
日本を離れて、改めて振り返ると、京都芸大の特徴はどういう点だと思われますか。
酒井 色々とありますけど、まず、大学全体では、美術学部が一緒にあるっていう事が凄く良かったですね。僕、美術の人とわりと仲が良くて、一緒にバンドをしていたんです。芸大のダンパではベースを弾いていました。オールディーズの曲とか。美術学部の人達は、音楽学部の学生とはまた違う雰囲気をまとっているのですが、それが凄く良かったと思います。美術の学生との交流は凄く刺激になりました。
作曲専攻においては、1~2回生時代は極めて拘束されたような、和声や対位法、フーガとか、作曲に関する理論などを中心に勉強をするのですが、その2年間の経験を経て、3回生になると、自由に書かせてくれるんですね。まずは学生の自由にさせてくれるのですけれども、その作り上げた作品に対する先生のアドバイスが的確で、今の僕の音に対するセンスや価値観のベースになるものを育て上げてくれました。
卒業後、フランスで色々な経験をして今に至りますけれども、どういうハーモニーを「美しい」と思うかというセンスは、京都芸大時代から全く変わってないですね。京都芸大時代の価値観をそのままに、今まで自分の音楽語法を発展させてきたと思います。そういうセンスを磨く前提として、今からして思えば、1~2回生の間はひたすら基礎ばっかりの授業が良かったと思います。
僕も、なんでエクリチュールばかりなんだろうって思っていました。
酒井 それは耳を鍛えるのに凄く良いと思いますよ。でも、実は1回生のとき、早く作曲したくて、こっそり曲を書いていたりしていたんです。発表は全然していなかったんですけれどね。和声の授業では前田先生にも結構怒られましたね。
怒られたというのは?
酒井 旋律があって、それにハーモニーをつけていくんですけど、上手く機能していなくて。でも、レッスンをいったん離れると、前田先生はとても親切でした。前田先生とお会いして、色々と音楽の話などをして、そういった授業以外のことも僕にとってはとても大切なものでした。今も一番の源となる“価値判断の基準”っていうのは、ずっと残っています。これは京都芸大で身に付けたものですね。
京都芸大の色々な先生方とお話ししていると、音楽を学ぶためだけじゃなくて、人間としての成長もありますよね。
酒井 そうですね。生の自分を鍛えるというか、ある一定のゴールを設定して、そこに至るように自分自身を鼓舞して努力する、といった設定を何回もすることによって、最初は小さい目標だったけれども、その目標をひとつずつクリアするうちに、大きい目標を設定していけるようになれるという、それの繰り返しですね。そういった訓練を京都芸大時代に積んでいきましたね。
インタビュアー:音楽学部 作曲専攻2回生 稲谷祐亮
(取材日:2012年7月5日)
Profile:酒井健治【さかい・けんじ】作曲家
1977年大阪生まれ。2000年京都市立芸術大学音楽学部作曲専攻卒業。2002年より拠点をパリに移し、フランス国立パリ高等音楽院にて作曲、電子音楽、楽曲分析を学ぶ。2007年より2009年までIRCAM(イルカム=フランス国立音響音楽研究所)にて研究員を務める。
ジョルジュエネスコ国際コンクール作曲部門グランプリ(2007)、武満徹作曲賞第一位(2009)、ルツェルン・アートメンターファンデーション賞(2010)などを受賞。2012年5月、エリザベート王妃国際コンクール作曲部門グランプリを獲得。受賞作「ヴァイオリンとオーケストラのための協奏曲」は、ヴァイオリン部門ファイナリストの課題曲としても演奏された。国内においても2012年7月、文化庁長官表彰を受彰。
現在、フランス学士院芸術アカデミーの会員に選出され、2013年までスペインのマドリッド(カサ・デ・ヴェラスケス)にレジデント・コンポーザー※として滞在している。
※オーケストラなどが作曲家を招待し、活動や運営方針に対する意見を聞き、その作曲家に作品を委嘱するという制度のこと。