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菅英三子さん 4/4

4.生きる



 

interviewer_musicお仕事をされていて,97年に日本に帰国されたきっかけはありましたか。

 91年にプラハのオペラでデビューして,それからドイツなどでも歌わせて頂いたんですが,それと並行して,93年くらいから日本の仕事も増えてきて,いろんなオーケストラと歌わせて頂けるようになっていきました。初めはヨーロッパに住んでいて,年に数回日本に帰ってきていたのですが,日本でもオペラを歌わせて頂いたりすると時間がかかるので,日本にいる期間がだんだんと長くなり,数カ月に一度ヨーロッパに戻る生活になったので,それだったらと日本に完全帰国しました。

interviewer_music私は宮城に住んでいた頃に,先生が出演されたチャリティコンサートを聞きに伺いました。チャリティ活動を活発に行われておられますが,どういった想いがあるのでしょうか。

 筋萎縮性側索硬化症(ALS)という,身体を動かすための神経系が変性する病気があります。1997年に,その患者さんや御家族を支援する日本ALS協会の宮城県支部主催のチャリティコンサートに出演しました。

 その時にALSの事を知ったのですが,ALSがすごく辛いのは,生きるか死ぬかの選択を,自分がしないといけないということなんです。体の機能が衰えた時に,呼吸する事ができなくなるので,そこで人工呼吸器をつけるかどうかの選択が求められます。人工呼吸器は,痰が絡んだりすると,それを取らないといけないので,家族は24時間介護になります。患者さんが生きようと思って,人工呼吸器をつける事を選択すると,自分が生きている間ずっと,家族に24時間介護を求める事になりますので,患者さんの中には呼吸器をつけないという選択をする人もおられるそうです。そういう事を97年のチャリティコンサートに出演した時に初めて知りました。

 また,呼吸器はシューという音がしますので,音楽が好きな方でもコンサートに行けないんです。それを聞き,是非,そういう機械の音もコンサートの大事な要素なんだというコンサートをしたいと思い,依頼を受けた翌98年からは,自分でチャリティコンサートを企画して,収益金を全て寄附していました。

 その後,チャリティコンサートは,11年間続けて,鳥インフルエンザが流行した年に打ち切りにしたのですが,再開についてはすごく迷っています。以前は,ALSの事を広く知って頂きたい,患者さんや御家族もコンサートに来ていただけたらいいなと思い活動をしていました。しかし,患者さんの中には,自分がALSだという事を世の中に言えない方がいらっしゃることを知り,ALSの支援を声高に言う事が,その方たちの気持ちに沿っているのか,もっと他にその人達の気持ちに沿った支援の仕方があるのではないかと,今は,手探り状態です。

 また,別の活動になるのですが,東日本大震災で,私たちが一緒に舞台を作っていた合唱団で,被災され,とても歌えないという方が何人かおられました。2012年から,そういった方々に笑顔が戻る事を願い,チャリティコンサートを始めました。すごく嬉しかったのは,仮設にお住まいのバリトンの方が,お母さんと一緒に練習に来られていて,私がお母さんに「合唱を一緒にやりませんか?」と声をかけたら,迷っておられたんですけど,「じゃあ,やります。」とすごく喜んで下さり,一緒にメサイアの抜粋を歌いました。一緒に笑って下さったことがすごく嬉しかったです。




三回生オペラでの記念写真(2009)

interviewer_music音楽が人と人を繋ぐきっかけになったり,人に元気を与えられたら,すごく嬉しいですね。

 東日本大震災が起きた時,私は京都芸大で教員をしていて,当時,自分には何もできないという無力感で,毎日,泣いてばかりで,ひどい顔で大学に出勤していました。その時に,ピアノ専攻の阿部裕之教授が,「今は,自分達は何もできないけど,絶対に音楽が必要な時が来るから,その時のために頑張ろうね」と言って下さり,その一言が力を与えてくれました。そういう御縁があり,2012年の東日本大震災のチャリティコンサートでは,特別ゲストとして阿部先生に演奏して頂きました。

interviewer_music今後の目標や夢はありますか。

 人間としてどう生きるかが大事だと思います。私の場合は,それが,他の人との繋がりの中で自分にできる事を精一杯していくという事なんです。それは,演奏会として頂いた仕事を精一杯歌う,頂いたオペラを精一杯歌うという事,チャリティや後進の指導などです。

 私が何かをしてあげるのではなくて,私が生きる事,音楽活動を通して,世の中の周りの人たちが,何かを掴みとって下さったり,受け止めて下さったり,より幸せになってくれたら,私がこの世に命を頂いた意味があるかなと思います。

 私の死生観は独特だと思います。私は,4人姉妹で3番目なのですが,家族はみんな短命で,今は私しか残っていないんです。だから,私にとって,生きるという事は死ぬことと隣り合わせで,今こうして,あなたとお話ししている時間もすごく貴重な事だと思っています。しかし,頑張って生きるのではなくて,ごく自然に,私なりにできる事をできる場所でしていこう,決して特別な事じゃなくて,ごく当たり前に普通の事を積み重ねていこうと思っています。

 人の生活の中に,その人にとってかけがえのない音楽が,寄り添ってあるといいなと思っていて,私が普通の事を積み重ねていく中で,その“かけ橋”になれると嬉しいですね。

interviewer_music京都芸大を目指す受験生や在学生へ一言お願いします。

 ピアノやヴァイオリンは,3歳~6歳には基礎が始まって,そこから15,6年してから大学受験になりますので,ある程度のことがわかってからの受験になります。しかし,歌の場合は,スタートが早くても中学校の終わりくらい,高2や高3から始めた人もいると思います。大学に入って,4年間学んで,それでもまだ卵にならないくらいですので,まずは歌が好きという事が1番だと思います。だから,歌が好き,音楽が好きという1番基になるところを大事にしてほしいです。あとは,みんな一人ずつ違っていいと思うんですよ。歌の場合は体が楽器で,声も一人ずつ違うし,感性も違う。だからソプラノが10人いて,同じ曲を歌っても10通りの歌があっていいと思うし,同じ曲を同じ人が歌っても,その時々の気持ちや体の調子によって違うと思うので,同じことを目指さなくていいと思います。一番大事なのは,体全体を使って,気持ちから音楽が出てくるということです。それを大事にして勉強して頂けるといいと思います。

インタビュー後記

インタビュアー:磯村真綸(音楽学部 声楽専攻2回生*取材当時の学年)

 菅英三子先生とお会いするのは今回が初めてではありませんでした。というのも,宮城で育った私は,同じく宮城・仙台で学生時代を過ごされた菅先生のコンサートを聴きに行ったり,高校生の頃にはレッスンをして頂いたり,ということがあったからです。それでも先生の大学時代や演奏活動についてのお話を伺ったのは今回が初めてで,このような貴重な機会を頂けたことを嬉しく思っています。

 毎日を音楽と共に歩んで来られた先生のエピソードの数々はとても魅力的で,先生の音楽を愛するお気持ちや温かさに胸がいっぱいになりました。

 また,大学時代について,「レッスンへの準備の積み重ねだった」というお言葉が大変印象に残っています。駆け足で上達することのできない自分に焦りやもどかしさを感じることも多いのですが,地道な練習,レッスンへの準備の積み重ねがよりよい自分へと繋がることを信じて,勉強に励んで行きたいと思いました。

(取材日:2014年12月15日・京都芸大音楽棟にて)

Profile:菅 英三子【すが・えみこ】声楽家

京都市立芸術大学卒業。ウィーン国立音楽大学をディプロムを取得して首席で卒業。

オーストリア共和国学術褒賞,ザルツブルグ市音楽奨励賞,出光音楽賞,青山音楽賞,新日鉄音楽賞,宮城県芸術選奨,文化庁芸術祭賞新人賞等を受賞。

ヨーロッパ・アメリカ・日本の各地において演奏活動を行っている。元京都市立芸術大学音楽学部准教授。東京藝術大学音楽学部教授。