閉じる

共通メニューなどをスキップして本文へ

ENGLISH

メニューを開く

山口高志さん

1. 幼少〜京都芸大時代

デザインの魔法

 

山口 「怪獣」と「大阪万博EXPO70」が僕の最初の美術体験でした。同級生のヤノベケンジさんもそうだったと思いますが、小さい頃は、ウルトラマンと仮面ライダーに夢中になっていました。中でも、毎週違う色、形で、多様にキャラクタライズされて登場する怪獣が大好きでした。

 大阪万博が開催された時は、僕は3歳くらいだったんですけど、会場に向かうモノレールの車窓から、いくつものパビリオンが建っている会場が見えてきた時の気持ちの高まりは、いまだに鮮明に記憶に残っています。未来都市といった雰囲気の会場に、とてつもないものがいっぱい建ってて、ボスみたいなかんじで太陽の塔が建っててっていう、あの感じ。それらの色と形の表現にすごく惹かれました。

 小学生になり、テレビに夢中になりました。ステージがあって、みんなが歌や笑いにときめいている世界が好きでした。とはいえ、大人しい子どもだったので、人前に出る側じゃないというのは早くからわかっていて、こういう世界を作る側になりたい、と子ども心に思っていました。

 中学生になって、YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)と漫才ブームの時代がやってきました。YMOは、音自体の斬新さもさることながら、髪型やステージコスチューム、レコードジャケット、ポスターなど、あらゆるビジュアルアイテムが極め細やかにディレクションされていて、「音楽がデザインされている。」ということに驚きました。

 また、『THE MANZAI』という番組で、電飾看板などを用いてブロードウェイさながらに、漫才を料理しているというところにデザインの魔法を感じました。YMOのジャケットもそうなんですけど、同じものでも、デザインや美術は、パッケージの魔法をかけることができると感じました。この頃に漠然と、そういったエンターテインメントと美術を出会わせる仕事がやりたいと思うようになりました。

 今年、DVD&Blu-rayとして商品化された『YMONHK』ではステージデザインを担当し、子どもの時に描いていた夢は幸運にも現実となりました。

自分のアドバンテージ

山口 小さい頃から人より得意なことは美術だということを認識していました。いまだに両親が大事に保存している七夕の短冊があって、小学校1年生の時に、「げいじゅつかになりたい」って書いたんです。多分、その頃「芸術家」という言葉を誰かに教わって書いたんだと思います。

 高校の時に広告ブームがありました。世界的なレベルで見ても、とてもクールなイメージ広告が生まれていた時代だったんですね。だから、「広告」という、ビジュアルと言葉を組み合わせる仕事の存在を知り関心を持ちました。ちょうど友人のお兄さんが大手広告代理店で働いておられて、その方が芸術系ではない一般の大学から就職したと聞いたので、一般の大学を目指して勉強していました。

 しかし、自分のアドバンテージについて改めて自問自答して、「自分が勝負できる道はやはり美術じゃないか」と思い、両親に相談をした時に、両親は、最も優れた美術大学として京都芸大を薦めてくれました。というのも、うちの父は京都の私大に通っていたのですが、当時東山にあった京都芸大の学生の姿を目の当たりにして、そこはかとない憧れがあったようなんです。父も絵に関心が高かったのですが、別の道に進んだ人だったので、「京都芸大に挑戦したらいいのではないか。」と言ってくれました。

学生生活

山口 小・中・高校でも今の仕事でもそうなんですけど、僕はすごくスロースターターで、最初の1、2年は飲み込みが遅いというか、自我の芽生えが遅い性質なんです。だから、1回生の総合基礎実技の授業は、京都芸大ならではの志の高い教育方法だと今ではわかるのですが、当時はその意図が理解できませんでした。

 京都芸大は、少人数制ですごくアットホームな学校でしょう。そのフレンドリーな感じにも最初は馴染めなくて、1、2回生の間は本当に大人しい学生だったと思います。

 芸大祭では、芸祭委員会の興業スタッフをやっていて、ライブの企画をしていました。僕は、王道よりもオルタナティブな価値で人を動員することに関心があり、「少年ナイフ」と「BOREDOMS(ボアダムス)」というバンドをブッキングしました。その後アメリカ等で、インディーズバンドとしては異例の評価を得たこの2組を学生時代に同時に招聘したことは密かな誇りです(笑)。

 それと、芸祭では展覧会も企画しました。絵の展覧会でBGMを選曲して流し続けるなど、「展覧会をデザインする」楽しみを芸祭の機会で知りました。これらの活動がきっかけとなり少しずつ自分の活動に自信を持ち始めました。

interviewerサイモン先生は、山口さんは自信に満ち溢れた学生だったとおっしゃっていました。

山口 4回生か大学院に入ってからだと思うのですが、自分のやっていることに充実感があり、それが顔に出ていたんだと思います。

 当時、サイモン先生のほかに、若い作家として活躍されている方が非常勤講師で多数おられて、「関西の若い面白い子を集めた展覧会があるんだけど、山口くんも作品を出してみないか。」という感じで誘って頂いて、ギャラリストや他大学の学生さん、若手の作家さんと交流する場を作ってくださいました。

interviewerその頃は、どのような作品を描かれていましたか。

山口 油絵の具とアクリル絵の具を使って、抽象の現代絵画を描いていました。当時、欧米ではニューペインティングの波が一時代を築いていて、日本では日比野克彦さんが彗星のごとく登場した頃で、海外でいうと、キース・ヘリング、ジャン・ミッシェル・バスキア、ジュリアン・シュナーベルなどが活躍していて、イラストと純粋美術をミックスした、ポップな平面表現というのが、非常に活況をなしていました。そういう美術とポップカルチャーの境界にあるような表現に刺激を受け、その世界に挑戦したいと思いました。

interviewer学生時代に抱えていた悩みや葛藤はありましたか。

山口 現代アートを学び、制作に取り組むことが楽しくて勢いづく一方で、本当に自分のやりたい、自分の一番能力を発揮できるところが、ファインアートなのか、デザインなのか、なかなかカテゴライズできずにいました。

インタビュアー:美術学部 デザイン科1回生 藤川美香

(取材日:2012年10月20日)

Profile:山口高志【やまぐち・たかし】NHKデザインセンター チーフディレクター

1991年、京都市立芸術大学・大学院美術研究科修士課程絵画専攻(油画)修了。同年、NHK(日本放送協会)入局。現在、NHKデザインセンター映像デザイン部チーフディレクター。

国民的番組である紅白歌合戦(1998/1999/2003/2010~2012)をはじめ、宇多田ヒカル~今のわたし~(2011)、桑田圭祐~55歳の夜明け~(2011)、YMONHK(2011)、プロフェッショナル仕事の流儀(2005)、夢・音楽館(2003~2005)、ニューイヤー・オペラコンサート(1997/2002/2010)、細野晴臣イエローマジックショー(2001)、ニュース10(2001~2001)、爆笑オンエアバトル(1999)などNHKを代表する番組のデザインを手掛ける。2006年、優れたテレビ美術に贈られる第34回伊藤熹朔賞『本賞』をNHK番組「音楽・夢くらぶ」で受賞。