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やなぎみわさん

1. 学生時代

やなぎ 私は,高校1年生の頃,神戸の小さな画塾で,現在京都芸大で教鞭をとられている中ハシ克シゲ先生に出会いました。高校生の3年間,京都芸大を受験するためにデッサン等を教えてもらっていたのですが,あの頃は中ハシ先生が京都芸大で教員をされる前で,25歳くらい。私は16歳でした。大学に入る前から中ハシさんに絵を教えてもらえたことは,私の自慢です。

interviewerそんなに早い時期に,お二人の出会いがあったのですね。

やなぎ 私の人生の最大級の幸運は,いちばん最初に出会った美術家が中ハシ先生だったということです。もちろんその先いろんな人々にお会いしましたけれども,やはりいちばん初めに出会う人というのは,ひよこが最初に見たものを親だと思うように,影響はとても大きいと思います。

 京都芸大に現役で合格して,中ハシ先生に合格証書を見せに行った時,一緒に喜んでくれると思ったら,すごくつれない表情をされて,「こういうものはね,半年後には意味はなくなるんだよ」って言われたのですが,その時はどういう意味か理解できず,ただショックで泣きそうになりました。でも,入学して分かりました。京都芸大に入学したということだけでは作家として何の強みにもならないということ。問題はこれからだということ。

 いつもそうですが,中ハシ先生は正しい事しか言わない。5年,10年,15年と経つうちに,それがやっと分かるようになる。中ハシ先生から教わった人に会うと,みんなそう言います。それでもって,常にアートに対する愛情がまっすぐ。それが学生みんなに伝わるのだと思います。私もそういう事を教えてもらった。だから今の学生さんが,卒業後も芸術に人生を捧げるようなことがあれば,そういった先生方の言葉のありがたみが後々しみじみ分かるのではないでしょうか。

interviewer京都芸大へ入学してからの学生生活はどのような感じでしたか。

やなぎ 京都芸大で過ごした6年間は,私の宝物です。当時の美術学部は1学年全員で125人(※)と少人数だったので,全員知り合いになりますよ。先輩や後輩,先生との距離も近かった。専攻を超えて,合宿状態で仲間たちと過ごせたのは良い思い出ですね。こんな大学は他に無いと思います。その分,卒業して離ればなれになるのは辛かったけれど。

 私は染織専攻で,初めのうちは着物を作っていたけれど,3回生くらいから大きなファイバーアートを作るようになりました。大学院を出る時,今は大学会館があるところにみんなでツナギを着て集まり,大きくて取っておけない作品を持ち寄って処分しました。当時はそれが京都芸大の恒例になっていました。大学とはこれでお別れだという一つのイニシエーションというのでしょうか。楽園を出るんだなぁと。思い出深いですね。

※総合芸術学科の設置,デザイン科の定員増により,平成27年度現在1学年の定員は135人。

interviewer総合基礎実技はどうでしたか。

やなぎ 今でもよく覚えていますよ。最初の課題は,みんなで藁だらけになって,わらじを編みました。その次が車の解体で,その次はアースワーク。グループ制作が多くて面白かったですよ。受験課題に縛られ,凝り固まった頭で入学した矢先だったので,衝撃的でした。いちばん初めにああいったジャンルに捕われない型破りな課題ができたのは,とても良かったです。

interviewer京都芸大で過ごされた時間を振り返られて,どのようなことが良かったと思われますか。

やなぎ 入学した当初の私には,“自己表現”と言われてもどうすればいいのか分からず難しかった。だから,総合基礎実技が終わった後,工芸基礎で「型」を学ぶことから始まったのは良かったと思っています。

「型」とは,先人たちにより長い歴史の中で受け継がれてきた手法のこと。初めは意味が分からなくても,先生から教わった「型」を守り,繰り返しそれを行うことで,だんだん分かってくる事があります。西陣に行って,布と糊を買って,蒸して,洗って,と工程がきっちり決まっている工芸の基礎から始められたことは,分からない事が多かったあの頃の自分にはちょうど良かった。

 京都芸大の先生たちは,もちろん熱心に教えてくださるのですけど,3回生からの自主制作になったとき,何か変なものを作り始めても,放任してくれますよね。特に染織専攻は,伝統や技法をしっかり守っておられる先生方で構成されていたにも関わらず,あれこれ言わずに見守ってくださった。

 京都芸大には,きっちり学ぶべき「型」と,それとは対局にある「自由」が混在している。何かそういう土壌があるのでしょうね。それが良かったのだと思います。

interviewer大学院修了後の活動は。

やなぎ 修了してから3年くらい,何にも作ってない空白の時期がありました。その時は,専門学校の講師のアルバイトを掛け持ちして,色彩学などを教えたりして生活していました。夜間の学校もあったので,朝から夜まで,1日で3校に出講する日もありました。その時期は辛かったですね。

interviewerそこから制作を再開されて。

やなぎ 個展をして,エレベーターガールの制服を着た女の子たちが作品を説明していくというパフォーマンスをやりました。あれから20年経ち,様々な作品を展開してきましたが,一周してパフォーマンス表現に戻ったんです。面白いなぁと思いますよ。人生不思議なものですね。

インタビュアー:野尻恵美(版画専攻4回生*)*取材当時の学年
(取材日:2014年11月16日・やなぎ氏の作業場にて)

Profile:やなぎみわ【Miwa YANAGI】舞台演出家/美術家

神戸市生まれ。京都市立芸術大学美術研究科修了。1990年代後半より,若い女性にCGや特殊メイクを施した写真作品「エレベーターガール」シリーズ,2000年より,女性が空想する半世紀後の自分を写真で再現した「マイ・グランドマザーズ」シリーズ,少女と老婆が登場する物語を題材にした「フェアリーテイル」シリーズを制作。2009年第53回ヴェネチア・ビエンナーレ日本館代表。2010年より演劇公演を手がけ,大正期の日本を舞台に新興芸術運動の揺籃を描いた「1924」 三部作,2013年に上演した「ゼロ・アワー 東京ローズ最後のテープ」は2015年2月に北米ツアー後,7月に京都の春秋座にて再演される予定。2016年より,台湾製の移動舞台トレーラーで中上健次「日輪の翼」を上演予定。http://www.yanagimiwa.net/