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松尾惠さん

1. 幼少時代~京都芸大時代

interviewer幼少期は,どのような子どもでしたか。

松尾 幼稚園の時に,先生が床に大きい紙を広げ,部屋の真ん中にポスターカラーを入れたバケツを置いて,自由に絵を描かせてくれたことをよく覚えています。先生に「好きなように描いていいんだよ」と言われて,それ以来,絵を描くことが好きになりました。

 小学校の時も家で暇な時は絵を描いていました。母が包装紙をセロテープで張り合わせて大きな紙にしてくれて,それに弟と一緒に大きな山や岩場,恐竜を描くのが好きでした。中学校の美術の先生が何をやっても褒めてくれました。先生は,京都芸大の出身で,「そんなに絵が好きなら美大を受けたらいい」とおっしゃってくださり,そこから,美大に進学することが目標になりました。

 母親が高校時代から油絵を描いていたようで,また,京都女子大学の出身で当時も京都芸大の近くだったこともあり,「美大に行くなら,京都芸大」と親子で思い込んでいましたね。一生懸命がんばって,何とか現役で京都芸大に入学することができました。

interviewerその時は,京都芸大でどういう事を学びたいと思われていましたか。

松尾 テキスタイルデザインを学びたいと思っていました。父が,サリーの生地として日本製のカラフルな化繊の生地をインドやパキスタンなどに輸出する仕事をしていたんです。父が持ち帰る生地見本がたくさん家にありました。それを見るのがすごく楽しくて,小さい時から布は好きでした。父はボタンやリボンなどの雑貨も輸出してたし,母親は要らなくなった服から取ったボタンを貯めていたので,ボタンと布が遊び道具でした。

interviewer実際に京都芸大に入学して,いかがでしたか。

松尾 京都芸大には,色や形が溢れていると思っていました。しかし,当時は,コンセプチュアルアートが全盛で,入ってみたら期待していた色や形は見当たらず,先生や先輩が作っている作品は未知の思考を促す難しいものでした。

interviewerその頃は,総合基礎実技はありましたか。

松尾 当時は,共通ガイダンス実技という名前でした。1回生の前期,専攻に分かれる前に4クラスに分かれて共同制作やワークショップをしました。後期になったら専攻に分かれるのですが,最初の共通ガイダンス実技での出会いが友人関係の基礎になりました。

interviewer染織専攻ではどういう作品を作られていましたか。

松尾 2回生までは布や染料で作品を作ろうと思っていました。しかし,3回生になった時に,友人の中に構想設計専攻の人達がいて,その人たちの影響で「コンセプチャルアートとは何なのかしら」とその入口に踏み込んでしまい,急に布や染料から離れてしまいました。若気の至りですけど,いわゆる用の美と呼ばれる工芸の中でいかに自己表現をするかという難しい葛藤を始めてしまったんです。

 けれど,工芸的要素から離れるといっても,誰でも若い時はそうだと思うのですが,私も作品を作ることは自己表現・自己実現だと思っていたので,内に向かうことばかりでその時の美術の流れを体系的に掴めておらず,非常に中途半端でしたね。


芸大祭 1回生

interviewer芸大祭はいかがでしたか。

松尾  遊ぶ場所や道具の少なかった当時,芸大祭は最大の娯楽だったんじゃないでしょうか。仮装行列は今熊野から四条河原町まで歩いていました。みんなで山車を担いで行くんですが,街中の人達で怒る人はいなかったですね。まだ,世間が寛容でした。舞踏をはじめて見たのも芸大祭でした。芸大や芸術の何かが何もわかっていない1年生の時の芸大祭で田中泯さんの踊りを見たのです。今熊野の校舎の玄関で,裸で全身を真っ黒に塗って一人で踊られて,先輩方は平気でそれを見ているので,「えらいところに来てしまったな」と思いましたよ。

interviewer制作以外の大学生活はいかがでしたか。

松尾 私はもともと芦屋に住んでいたのですが,京都の文化の高さに憧れがありました。特にアンダーグラウンドなものやインディーズなものですね。皆,テレビも電話もお風呂もない下宿に住んでいましたから,楽しみといったら,本の話をしたり,鍋パーティーをしたり,深夜の映画を見に行ったりという感じでした。

interviewerその時の友人関係で,今も親しくされている方やアーティストになられた方はおられますか。

松尾 いっぱいいらっしゃいます。私は,80年に卒業したのですが,80年は変わり目の時で,ニューペインティングが流れ込んできた頃です。80年代初期の関西ニューウェーブと呼ばれた人たちで,京都芸大では後輩にあたる,石原友明さん,松井紫朗さん,松井智惠さん,赤松玉女さん,中原浩大さんなどで,当時学生であったその年代の方々が一気に作家デビューされ,活躍されていました。

interviewer3回生,4回生の時に,卒業後の進路はどのように考えておられましたか。

松尾 2回生の時に,工芸のクラスメイトに「卒業後どうするの?」と聞いたら,その子は「作家になる」と言いました。その時に,初めて「作家」という選択肢があることに気づきました。

  その頃,ちょうどコンセプチュアルアートなどの,思考する芸術というものに一歩踏み出していて,4年生の時には,漠然と「作家になろう」と決めていて,ただ,ひたすら作品を作っていれば何とかなる。」と思っていました。

interviewerギャラリーで作品を発表されていましたか。

松尾 展覧会を開くことは,一つの目標でした。その展覧会を足掛かりに次を作っていこうと考えていました。当時,ギャラリーでは,学生の展覧会をさせてくれなかったんですよ。そんな中,ギャラリー16さんに,クリスマス頃の閑散期に貸してもらって,友人と二人展を開催しました。

 その展覧会を通して,学校とは全然違う価値観やキャリアが違う大人と出会えるという経験に味をしめて,それ以降,ギャラリー16さんにはお世話になりました。


  「制作展前 2回生1月」


  「個展 1984年(藍画廊) 撮影:達川 清」

インタビュアー:本田耕人(美術学部総合芸術学科4回生)
(取材日:2014年1月7日)※唐仁原 希(2011年油画修士修了生)個展/MATSUO MEGUMI+VOICE GALLERY pfs/wにて

Profile:松尾惠【まつお・めぐみ】MATSUO MEGUMI+VOICE GALLERY pfs/w 代表/Director

1980年京都市立芸術大学美術学部工芸科染織専攻卒業。

1986年VOICE GALLERY(現 MATSUO MEGUMI+VOICE GALLERY pfs/w)開設。京都芸術センターを運営する財団法人京都市芸術文化協会理事,財団法人京釡文化振興財団(大西清右衛門美術館)評議員。ギャラリー運営を通じてアーティストの紹介,育成のみならず,京都国際現代芸術祭プロフェッショナルアドバイザリーボード,超京都代表,府・市の各種委員を務めるなど,京都を拠点に現代美術や芸術の環境整備に幅広く関わっている。京都市立芸術大学をはじめ多数の芸術大学において非常勤講師として後進の育成にも力を注いでいる。