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【エッセイ】「高砂」の声 ―祝福しているのは誰?―

竹内晶子(法政大学教授)

数ある能作品の中で古来最も有名な曲といえば、「高砂」だろう。上演頻度が高い人気曲というだけではない。「高砂やこの浦舟に帆を上げて…」という後場冒頭の待謡は、過去には披露宴でよく謡われるものであったし(金屏風を背に新郎新婦が座る席を「高砂席」と呼ぶのはその名残)、「千秋楽は民を撫で」からの終曲部は、今日に至るまで、能の番組の最後に「付祝言」として謡われる定番である。

ところがこの「高砂」終曲部――より正確には、神舞の後――の詞章をあらためて読んでみると、果たして誰の言葉であるのか甚だ曖昧と言わざるを得ない。(以下の引用は日本古典文学大系『謡曲集』上による。便宜上、地謡の箇所に順に地I、地II、地III、地IVと番号を振った。)

I:有難の影向や、有難の影向や、月住吉の神遊び、み影を拝むあらたさよ、

シテ:げにさまざまの舞ひ姫の、聲も澄むなり住吉の、松影も映るなる、青海波とはこれやらん、

II:神と君との道直に、都の春に行くべくは、

シテ:それぞ還城楽の舞、

III:さて萬歳の

シテ:小忌衣、

IV:さす腕には、悪魔を払ひ、納むる手には、寿福を抱き、千秋楽は民を撫で、萬歳楽には命を延ぶ、相生の松風、颯々の聲ぞ楽しむ、颯々の聲ぞ楽しむ。

Iは、住吉の神の顕現を前にした神官(ワキ)の言葉であるようだ。しかし地II以降、シテ神)と地の掛け合いであたりの情景と、人々に寿福をもたらす神の舞を描写する段になると、次第に発話の主が曖昧になっていく。一体どこからが、そしてどこまでが、神の言葉なのか、神官の言葉なのか、それともナレーションなのだろうか。

参考までに、いくつか現代語訳を比べてみよう。最初の二つの地謡部を神官のセリフ、三つめを神のセリフととり、四つめは「命を延ぶ」までを神のセリフ、それ以降はナレーションとして訳すのが、佐成謙太郎である(『謡曲大観』)。一方小山弘志(日本古典文学全集『謡曲集』)は、地I、地IIを神官のセリフとし、地IIIと地IVはすべて、特定の役のセリフともナレーションであるともせず、発話者特定不能な言葉として訳す。天野文雄(『能楽名作選 原文現代語訳』)は、地IIIIをすべて神官のセリフとし、地IVを神のセリフとしている。文法的にも、また文脈上の意味からいっても、これらの様々な解釈のどれもが可能である。

能の詞章において、このように発話者が不確定になってしまう理由の一つは、文法範疇としての「人称」が存在しない日本語の特性にある。鍵括弧による発話の区別がなく、敬語や文脈、(使用頻度の極めて低い)人称代名詞に相当する語句から発言者を特定することができなければ、誰の言葉であるのか判別するのも、さらにはセリフとナレーションの区別すらも、甚だ困難となってしまう。

能の演劇的特性もまた、発話者を曖昧にすることに貢献する。大抵の演劇ジャンルにおいては、一人の役者がある一人のキャラクターの声と身体の両方を独占的に担当する。従って、舞台上で発される言葉の主体は、常に何らかのキャラクターに特定できる。ところが能の場合、キャラクターの「体」を担当するシテやワキの役者は、そのキャラクターの言葉だけでなく、ナレーションや、時には別のキャラクターの言葉まで発してしまう。地謡に至っては、特定のキャラクターの「身体」を担当することもなく、どのキャラクターの言葉も、ナレーションも、発することができる存在である。能において、言葉を発する身体は、その言葉が特定のキャラクターのセリフであることを必ずしも保証しないのだ。

その結果、この「高砂」終曲部に限らず、能には「誰の言葉なのかわからない」という翻訳者泣かせの詞章が頻出するのである。それにしても、最も有名な能の、最も頻繁に謡われてきた箇所が、実は誰の言葉なのか、ナレーションなのかセリフなのかも分からない、というこの事態は、甚だ示唆的ではないだろうか。言い換えれば我々は、これが「誰の言葉であるのか」に全く拘泥せずにこの能を、この謡を、享受してきたのだ。この、単一の話者に還元されることのない――誰の声でもありえるような、あるいは誰の声でもないかもしれない――「言葉」そのものが、「高砂」終曲部においては、悪を払い寿福をもたらす力を舞台上の神の舞姿に付与し、我々が生きる世界を祝福するのである。

金剛流現行謡本「高砂」 金剛流現行謡本「高砂」

【参考文献・資料】

  • 天野文雄『能楽名作選 原文現代語訳』上、角川書店、2017年。
  • 小山弘志他校注『謡曲集』一、日本古典文学全集、小学館、1973年。
  • 佐成謙太郎『謡曲大観』第三巻、明治書院、1930年。
  • 竹内晶子「語りとセリフが混交するとき――世阿弥の神能と修羅能を考える」『能楽研究』第四一号、2016年。

竹内晶子

法政大学教授。能を中心とした比較文学・比較演劇。「能とオラトリオ試論 合唱・ナレーション・宗教的機能という観点から」(松岡心平編『中世に架ける橋』森話社、2020年)など。